山田博は実は有名人だった??

親父です!

2020年3月19日に亡くなりました。
享年78歳。

元気な親父でした。

 

 

山田博

山田家の5男だか6男としてブラジルで生を受ける。

それまでは日本生まれらしく小さい頃は親戚のおじさんたちは皆日本語混じりのポルトガル語を話すからいつも何を言ってるのかよくわからなかった。

うちの親父くらいからがブラジル生まれでポルトガル語がメインで話すようになったとか。

(心霊写真じゃないよw僕自身気づいたときは「わぁ!!」って声出しましたw)

昔の人なので兄弟はたくさんいます。

10人くらいはいるのか??

もうすっかり忘れてしまいました、、、

 

なので家族が全員揃うともう誰が誰だか全然わかりません、、、

トラックの運転手をやっていた父

ブラジルではトラック野郎でした。

国土は全世界でベスト10に入るブラジル。

父の記憶は全くありません。

 

一月に2~3日くらいしか一緒に過ごした記憶しかない。

外国なので夏休みとか長期の休みは一緒に過ごしていましたが、それ以外はトラックで生活していた父。

 

小さときに親戚の家でパーティーをして男性陣が床で雑魚寝をしてるときでした。

寂しくて親父に歩み寄りたかったのですが親父と親戚のおじさんを間違えましたw

それくらい父が誰だかわからなかったんです、、、

 

当時のブラジルは発展途上で恵まれた国ではなかった。

今ほどはね。

 

そんななかでも不自由することなく育ててもらいました。

 

都市伝説ですが結構な間◯免許で運転していた親父。

そのためにはいつも警察に野菜を配りまくっていたとか。

いつの日か免許を手に入れそれっきり野菜をあげなくなったとか。

高度成長時代の日本

親父が日本に来たのはそのときです。

日系の2世なので比較的入国しやすいんです。

それを利用し日本へ!

 

ブラジルも丁度トラブル続きでやっとだしたお店が国の改革だか不正だかで閉店に追いやれて困っていたとか。

 

日本で数年一人で過ごしたのちに僕と母も日本に来ました。

理由は知りませんw

いわれるがままについてきただけですw

 

当時は大企業の東芝府中にいた親父。

夜勤です。

昼間は寝てるので遊んでいると怒られる。

それでも休みの日には遊びに連れて行ってもらってました。

小学校の間くらいですね。

小4に日本に来たので2年位ですかね。

中学からは野球漬け。

 

うっすら遊びに連れて行ってもらった記憶って確かにありますけど、怖かったのか、、、

怒られたイヤな親父のイメージが強く残ってっるんだよな、、、

バブル崩壊の影響を受けた親父

まぁ当たり前ですね、、、

工場の超末端の人間ななのでリストラにあいました。

東芝の不況のはじまりですね。

 

そこからまた微妙に家族が離れ離れになりだしました。

父と母が働いていた工場が真逆で通勤が大変のため別居。

 

僕は再び母との生活になりました。

 

数年が経ち時にまた家族で一緒に住むことなりましたが、僕はフリーターをしていました。

専門のときに就活しましたよ。

でも働いていたスポーツクラブが楽しくそのまま続けていたんです。

 

家族で住んでいたところからは遠かったしシフトで遅番が多かったので家族とは逆転の生活をしていました。

長年親のスネをかじりやっと一人暮らしをはじめていたのですが再び不況の波が押し寄せてきました。

またリストラです、、、

 

もういい年を過ぎて親父なかなか仕事が見つかりません。

そんなときでした。

群馬で農業を開始

きちんと聞いたことないのですが当時住んでいた青梅に週に何回か帰っては車に寝泊まりしながら畑を始めていたとか。

今となっては少し話題になり始めている農業ですが、仕事にするのはなかなか大変だし信頼も人脈も全く無いところからのスタート。

そういうタフさはめっちゃあるんだよなぁ、、、

 

いつの間にやら人気者になってました。

実はNHKに2回出てるんですw

・キッチンが走る! ブラジルの食材で挑む“和の逸品”〜群馬 大泉町・邑楽町〜(#98 2014年5月23日)

・新日本風土記ブラジルタウン大泉町(2016年7月22日)

毎日新聞にも掲載されたとか。

 

NHKきびしいですね。

動画が全く出てこない、、、

数年前にはあったんだけどね、、、

さすがにアップしたら怒られるよね^^;

 

陰ながら母の活躍も大いにありました。

なんせうちはほぼ全て手作業でしたので^^;

袋詰めや出荷前の準備は母が休む事なくやってました。

その合間に家事もこなしがら。

 

親父は常に畑の事で頭がいっぱい。

種植えの時期はご飯も食べずに畑を耕してたとか。

5年くらいって言ってたっけかな、、、

ほぼ1日も休まずに働いた2人。

 

その体力は頂いた感はありますw

 

自分の体に無頓着すぎた親父。

入れ歯もボロボロ、、、

畑では砂埃をもろに吸っていたとか

末期の肺癌

2019年12月上旬から母から頻繁に電話がかかるようになり「親父が胸が痛いって言ってる」それでもなかなか病院に行かない親父。

とうとう限界が来たらしくレントゲンを撮り即入院。

医者の説明を理解できず急遽実家に戻ることになりました。

 

かかりつけの循環器科の病院で判明していたのでしょうけど、念のたがんセンターセンターで診察を受けるよう勧められた。

 

がんセンターの先生も画像を見た途端に無言。

相当ひどい状態でした。

原発は左の下葉(下の方)でそこはもう相当大きいしそこから小さながんも点在している。

そのために胸水が溜まっていて苦しいとの事。

 

開胸は年齢を考えると負担が大きすぎて難しいとの事。

放射線は点在も含めると量が多すぎるとの事。

抗癌剤は肺のときは著しく機能を損なうだったかな。

手の施しようがない状態でした。

 

運が良かったと言うべきか親父は理解できてなかったみたいです。

できることは入院し延命治療のみ。

一人ぼっちの最期

この年初の家族全員が一人ぼっちで過ごした年末、年始。

状態が相当酷かったので一旦はかかりつけの病院で入院し計画をたてていました。

それが年末だったのでそのまま入院。

 

それでも一旦は退院し家に戻り畑に立っていたおやじ。

 

1月2月は皆のお陰で実家を手伝いつつ自分の生活をこなしていました。

週に何回は実家を離れていたのですが、その間は運動不足の解消のために親父が畑に行き畑を耕す機会で散歩していたとか。

本当にタフでした。

そんなある日、丁度僕が実家を離れている日でした。

畑で苦しそうにしていたら地主さんが救急車を呼び、がんセンターに入院。

 

限界でしたね、、、

 

がんセンターで2週間くらい過ごし、高度医療を受けないので転移することになりました。

このときからコロナの影響で家族のお見舞いも厳しくなっていたのですが。

とうとう群馬にもコロナの感染者が出てしまいました。

 

新しく移った病院ではとうとう家族も入れない、、、

 

着替えなど必要なものを届け遠くから後ろ姿をみるだけ。

話せない訳ではないけど日本語を覚えようとしなかった父

ましてやこんな状況。

 

どうしてたんだろうね・・・

 

病態が更に悪化してやっと面会が許されたけどほぼほぼ酸素を吸えない父は寝返りをうって目を開くのがやっと。

脳が酸欠状態です。

何を言っても届いてなかったかな、、、

元気なときの父は本当に体力があって、好奇心があってアクティブに動く人でした。

好き勝手にあっちこっちに行き、家族で出かけても一人で勝手に先に進んだりして皆を置いてけぼりにする父。

勝手にはぐれて皆にキレる父w

 

朝一で病院から電話がかかりこのときは東京に居たんですが、すぐに察知できました。

すぐに車を借りていつもなら一般道でのんびり朝ごはん食べながら向かう実家ですが、高速で向かい実家立ち寄ってすぐに母をピックアップし病院へ少し無理して向かいました。

 

僕たちが到着した頃に心電図はもうなかったです。

気づいていました。

看護師さんから8時頃には心臓は止まっていたみたいですと主治医に伝え。

僕たちが到着したのはその15分~20分後くらいです。

 

最後の最期まで待ってはくれなかった父。

2020年3月19日8時31分死亡確認

 

 

ずっと日本に居たので親戚の死にも直面したことなかったんです。

それがいきなり親父になるとはね、、、

何故かまったく泣けませんでいた。

わかってはいても、理解していても撓骨動脈を調べちゃいました、、、

当たり前だけど脈はない。

 

正直、親父は死なないと思ってた。

タフな人だしその意志さえしっかり持てば助かると思ってた。

その術を伝えたと思ったけどね、、、

父親とは

家族葬をし、僕と母だけですけど、、、

そのときに初めて親父の前で泣きましたね。死んでからね。

いろんな儀式?があるんですね。

 

足袋みたないな履かせたり、手の甲にあてたり初めてでどこかで親父が死んだ実感が湧いてきて少し泣きました。

葬儀場のお姉さんも少しもらい泣きしそうになってたの見てこらえたけどそのときにやっと実感が少し湧きましたね。

 

5月には母がブラジルに帰国し一人で日本に残ることになりました。

 

親父が亡くなってから本当に思う

 

親父とは

 

親父の思い出が本当に無く一緒にいる期間が本当に短い父親でした。

今でもどこかで群馬に帰れば真っ黒に日焼けして小汚い格好で満面の笑みで出迎えてくれるんじゃないかって思う。

でもそうじゃない。

もうそれはない。

 

親父の嫌な面ばっかり見てきてしまったなぁって本当に思う。

いいところもたくさんあったはず。

ここまで何不自由なく育てもらったし、野球も好きなだけやらせてもらったし、専門学校も行かせてもらったし。

 

最期の最期まで親父とはケンカしてのお別れになっちゃなって思う。

だからこそもっと素直に「ありがとう」って言えればよかったなぁって思う。

近すぎる関係にはどうして意地を張ってしまうんだろうね。

 

僕にとっての父親とは

頑固だったけど自分の芯を絶対に曲げないでやり通す人でした。

貧しくても、困っていても僕のことをいつまでも第一に考えてくれる父親でした。

 

最後に素直に「ありがとう」が言えなくてごめんね。

でも親父には本当に感謝しています。

本当にありがとう。

もう畑の心配はしなくていいからゆっくり休んでね。